岩屋城 (福岡県太宰府市)
★★登城30城目★★ 訪問日:2010年3月22日
【通称】 なし【城郭構造】 山城
【天守構造】 不明
【築城主】 高橋鑑種
【築城年】 天文年間(1532 - 1554)
【主な城主】 高橋氏
【廃城年】 天正14年(1586)
【遺構】 土塁、堀切
【指定文化財】 なし
本丸は小さな平坦地で、北側には高さ3mに及ぶ大土塁がある。
本丸の東と南には腰曲輪があり、北側の遊歩道沿いには大小3条の堀切が存在する。
本丸の南西には林道を挟んで二ノ丸があり、ここには城主・高橋紹運の墓がある。
二ノ丸の下に数段の曲輪跡が続き、登山道沿いには土塁が現存している。
本丸の東と南には腰曲輪があり、北側の遊歩道沿いには大小3条の堀切が存在する。
本丸の南西には林道を挟んで二ノ丸があり、ここには城主・高橋紹運の墓がある。
二ノ丸の下に数段の曲輪跡が続き、登山道沿いには土塁が現存している。
そしてついに天正14年(1586)、島津軍は総勢2万にも及ぶ大軍で岩屋城に攻め寄せてきます。
この時、高橋紹運に課せられたミッションは、秀吉の援軍の到着まで時間を稼ぐこと。
紹運以下、763名の武士は籠城戦で島津軍に抵抗します。
この時、高橋紹運に課せられたミッションは、秀吉の援軍の到着まで時間を稼ぐこと。
紹運以下、763名の武士は籠城戦で島津軍に抵抗します。
降伏勧告を幾度も受けますが、圧倒的に劣勢の状況の中、紹運はそれを断り奮戦。
壮絶な戦いを繰り広げた末、島津軍に3000とも言われる損害を与え、2週間も持ち堪えました。
壮絶な戦いを繰り広げた末、島津軍に3000とも言われる損害を与え、2週間も持ち堪えました。
しかし、天正14年7月27日。ついに城の水の手を切られ万事休す。
紹運は敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害。
残された将兵もあとを追い全員が玉砕します。
左写真:岩屋城櫓台跡
右写真:櫓台跡から本丸を望む
紹運は敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害。
残された将兵もあとを追い全員が玉砕します。
右写真:櫓台跡から本丸を望む
壮絶な戦いの舞台となった、岩屋城の本丸跡には、インパクトのある石碑が。
それにしても、本丸跡からの眺めは絶景です。
大宰府が一望できます。
この景色を眺めながら、ランチを食べてる方もたくさんいましたよ。
高橋紹運は、どんな思いでこの景色を眺めたのかな。
「嗚呼壮烈岩屋城址」 高橋紹運の家臣の子孫が作ったのだとか。 |
それにしても、本丸跡からの眺めは絶景です。
大宰府が一望できます。
この景色を眺めながら、ランチを食べてる方もたくさんいましたよ。
高橋紹運は、どんな思いでこの景色を眺めたのかな。
見どころ
土塁跡、本丸跡、高橋紹運の墓浦ノ城 (福岡県太宰府市)
★★登城29城目★★ 訪問日:2010年3月22日
【通称】 太宰府城【城郭構造】 山城
【天守構造】 不明
【築城主】 少弐経資
【築城年】 弘安5年(1282)
【主な城主】 少弐氏
【廃城年】 不明
【遺構】 なし
【指定文化財】 なし
(出典:ウィキペディア)
小弐氏の六代頼尚は足利尊氏を助けて、浦ノ城北側の原山の一坊に尊氏を迎えている。
別名を大宰府城ともいう。
太宰府天満宮裏の県道をしばらく行くと、「浦ノ城橋」というお城好きには気になる名前の橋が。
朱塗りの橋を渡って周りを探すと、ありましたよ。「浦の城跡」の標識が。
周りは普通の住宅地。標識に従ってしばらく歩いてみると児童公園がありました。
どうやらここが城跡のようです。
中に入ってみると、案内板と石碑のみ。遺構は何も残ってないようでした。。。
朱塗りの橋を渡って周りを探すと、ありましたよ。「浦の城跡」の標識が。
周りは普通の住宅地。標識に従ってしばらく歩いてみると児童公園がありました。
どうやらここが城跡のようです。
中に入ってみると、案内板と石碑のみ。遺構は何も残ってないようでした。。。
案内板によると、小弐頼尚が足利尊氏を、浦ノ城北側の原山の一坊に迎えたとのこと。
太宰府門前町の『梅ヶ枝餅』
そんな道真公を見かねたある老婆が、道真公の好きだった餅を梅の枝にさして差し入れます。
道真公はそれを大変喜んだそうです。
道真公はそれを大変喜んだそうです。
太宰府天満宮 (福岡県太宰府市)
さて、その梅ヶ枝餅のお店や土産屋で賑わう表参道から鳥居を抜けると、延寿王院が見えてきます。
ここは、幕末に尊皇攘夷派の三条実美ら朝廷を追われた5人の公卿が滞在したこともあるところ。
その間、西郷隆盛や高杉晋作も出入りしたそうです。
左写真:表参道
中写真:鳥居(九州最古とされる)
右写真:延寿王院
ここは、幕末に尊皇攘夷派の三条実美ら朝廷を追われた5人の公卿が滞在したこともあるところ。
その間、西郷隆盛や高杉晋作も出入りしたそうです。
中写真:鳥居(九州最古とされる)
右写真:延寿王院
更に進んで、もうひとつの鳥居を抜けると、漢字の「心」を形どった心字池があります。
ここに架かる橋は、まず太鼓橋(山型)、そして平橋、最後も太鼓橋と3つの橋でできています。
これは仏教思想による、過去・現在・未来の「三世一念」というのを表しているそうです。
ここに架かる橋は、まず太鼓橋(山型)、そして平橋、最後も太鼓橋と3つの橋でできています。
これは仏教思想による、過去・現在・未来の「三世一念」というのを表しているそうです。
過去が山で、現在が平ら、未来も山。
なんだか過去と未来がしんどそうですね。
なんだか過去と未来がしんどそうですね。
橋の途中には、屋根の造りが立派な志賀社も。
左写真:心字池
中写真:心字池に架かる橋
右写真:志賀社
中写真:心字池に架かる橋
右写真:志賀社
橋を渡りきると、右手に手水舎、正面に楼門が見えてきます。
手水舎の水盤は、福岡の霊峰 宝満山の山腹から切り出された一枚岩で作られています。
水盤の中に浮かび上がっているのは、亀?でしょうか。
手水舎の近くには、ピカピカの麒麟の像があります。
こんなにピカピカですが、嘉永5年(1852)に奉納されたもの。
水盤の中に浮かび上がっているのは、亀?でしょうか。
手水舎の近くには、ピカピカの麒麟の像があります。
こんなにピカピカですが、嘉永5年(1852)に奉納されたもの。
この麒麟の像をお気に入りだったのが、近代日本建設期の大商人トーマス・グラバー。 数回に渡って太宰府天満宮を訪れては麒麟の像を鑑賞したそうです。 後にグラバーは、友人が設立したビール会社を引き受けて日本人向けのビールを販売しますが、このビールを「キリンビール」と名付けます。 |
楼門の横にある御神牛の像。
この御神牛の像。
自分の身体の悪いところと同じ部分を撫でると病気は回復し、頭を撫でると知恵が付くとのこと。
延喜3年(903)に道真公が亡くなり、遺骸を都へ送る途中、牛車を曳く牛が伏して動かなくなります。 門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)は、それを道真公の遺志と見て、その地に遺骸を葬りました。 その時の牛を「御神牛」として、今でも大切にしているのだそうです。 |
この御神牛の像。
自分の身体の悪いところと同じ部分を撫でると病気は回復し、頭を撫でると知恵が付くとのこと。
さっそく牛の頭を必死に撫でてきましたが、今のところ効果は現れていません(笑)
今後に期待。
今後に期待。
他にも本殿の周りには、九州に残る最大・最古の絵馬堂や、樹齢1000年を超える楠の木などがあります。
手水舎の水で清めてから、本殿のほうへ向かいます。
本殿の入口には、見事な楼門があります。
重層の入母屋造り、檜皮葺の二重門。全体は朱塗りされて、堂々たる存在感。
慶長年間に石田三成が再興しましたが、明治時代に焼失。1914年に再建されました。
本殿の入口には、見事な楼門があります。
重層の入母屋造り、檜皮葺の二重門。全体は朱塗りされて、堂々たる存在感。
慶長年間に石田三成が再興しましたが、明治時代に焼失。1914年に再建されました。
もちろん梅の彫刻も配されています。
そして、いよいよ本殿へ!
本殿は何度か火災に見舞われ、現在の社殿は天正19年(1591)に小早川隆景が再建したものです。
五間社流造り、檜皮葺。正面には唐破風状の向拝が付いた、桃山時代の様式。
国の重要文化財に指定されています。
五間社流造り、檜皮葺。正面には唐破風状の向拝が付いた、桃山時代の様式。
国の重要文化財に指定されています。
装飾が鮮やかで豪華。
欄干には鯉に乗った人の装飾もあります。
欄干には鯉に乗った人の装飾もあります。
社殿の前には、向かって右に「飛梅」、左には「皇后梅」が配されています。
菅原道真公は、梅の花が好きだったことでも知られています。
左遷により都の自宅で大事にしていた梅と別れる際には、こんな歌を歌っています。
この右に配される「飛梅」は、 道真公が大宰府へ左遷された際に道真公を慕って、 一夜のうちに都から空を駆けてきたという伝承をもつ ご神木です。 |
菅原道真公は、梅の花が好きだったことでも知られています。
左遷により都の自宅で大事にしていた梅と別れる際には、こんな歌を歌っています。
現在でも、梅の季節にはその香りを楽しませてくれるそうです。
「藤戸饅頭本舗」の『藤戸饅頭』
お店のある藤戸は昔、源平合戦の舞台となったことでも知られています。
藤戸合戦では源氏方の武将 佐々木盛綱が馬で海を渡って平家の虚を突き、源氏を勝利に導きます。
しかしその裏で、浅瀬を教えてくれた漁師を口封じの為に殺害してしまいます。
藤戸合戦では源氏方の武将 佐々木盛綱が馬で海を渡って平家の虚を突き、源氏を勝利に導きます。
しかしその裏で、浅瀬を教えてくれた漁師を口封じの為に殺害してしまいます。
その後、お餅は藤戸寺の境内の茶店で売られるようになり、時を経てお餅から饅頭になります。
江戸時代に入ると饅座小屋として販売を開始。
そして万延元年(1860)、現在地に「藤戸饅頭本舗」として店舗を構えたそうです。
江戸時代に入ると饅座小屋として販売を開始。
そして万延元年(1860)、現在地に「藤戸饅頭本舗」として店舗を構えたそうです。
お店は歴史を感じさせる佇まい。扱っているのは藤戸饅頭のみです。
さっそく注文すると、その場で蒸し器(せいろ?)から饅頭を詰めてくれました。
さっそく注文すると、その場で蒸し器(せいろ?)から饅頭を詰めてくれました。
藤戸饅頭は、中の餡がすっかり透けるほどの薄皮饅頭。
食べてみると、口の中に芳醇な香りが広がります。
この香りのもとは、地元の麹を使用して醸成した甘酒と小麦粉を混ぜ合わせてつくる薄皮。
そして中のこし餡も、甘すぎずあっさりしているので、ついもう一個と手が伸びます。
隣の岡山市にも、大手まんじゅうという藤戸饅頭にそっくりな有名なお饅頭があるのですが、
本当にそっくりなので、岡山県の人にお饅頭を見せて、「藤戸饅頭」と答えるか、「大手まんじゅう」
と答えるかで、倉敷市の人か岡山市の人かがわかるんだそう。
藤戸饅頭のほうが歴史が古いようですが、広島では「大手まんじゅう」の名前のほうをよく聞きます^^
食べてみると、口の中に芳醇な香りが広がります。
この香りのもとは、地元の麹を使用して醸成した甘酒と小麦粉を混ぜ合わせてつくる薄皮。
そして中のこし餡も、甘すぎずあっさりしているので、ついもう一個と手が伸びます。
隣の岡山市にも、大手まんじゅうという藤戸饅頭にそっくりな有名なお饅頭があるのですが、
本当にそっくりなので、岡山県の人にお饅頭を見せて、「藤戸饅頭」と答えるか、「大手まんじゅう」
と答えるかで、倉敷市の人か岡山市の人かがわかるんだそう。
藤戸饅頭のほうが歴史が古いようですが、広島では「大手まんじゅう」の名前のほうをよく聞きます^^
源平藤戸合戦史跡 ~その2~ (岡山県倉敷市)
訪問日:2010年01月11日
佐々木盛綱の活躍で源氏方の勝利となった源平藤戸合戦。盛綱の働きを聞いた鎌倉の総大将 源頼朝は、「海を馬で渡るなど前代未聞!」と称賛します。
そして盛綱に藤戸付近の児島のほか、伊予、越後など5カ国を与えました。
その国入りの日、一人の老婆が泣きながら盛綱に詰め寄ります。
それは、盛綱が馬で渡れる浅瀬を教えてもらった漁師の母親でした。
それは、盛綱が馬で渡れる浅瀬を教えてもらった漁師の母親でした。
浅瀬を教えてもらった盛綱は、他言を恐れて漁師をその場で殺してしまい、その亡骸は「浮州岩」と
呼ばれる岩に流れ着いたと言います。
呼ばれる岩に流れ着いたと言います。
この母親の無念が伝わる「笹無山」と呼ばれる場所が今も残っています。
漁師の母親は「佐々木といえば笹まで憎い!」と半狂乱になり、この小山の笹を全部引き抜いてしまった
と言います。その後は、母親の執念からか、笹が一本も生えなくなったそう。
左写真:笹無山
右写真:現在は、少し笹も生えてきてるようです。母親の無念も晴れたのでしょうか。
漁師の母親は「佐々木といえば笹まで憎い!」と半狂乱になり、この小山の笹を全部引き抜いてしまった
と言います。その後は、母親の執念からか、笹が一本も生えなくなったそう。
右写真:現在は、少し笹も生えてきてるようです。母親の無念も晴れたのでしょうか。
この「浮州岩」。
都に移されてから天下の名石「藤戸石」と名を変え、幾度も歴史の表舞台に登場します。
都に移されてから天下の名石「藤戸石」と名を変え、幾度も歴史の表舞台に登場します。
室町8代将軍・足利義政により現在の銀閣寺に造営した庭園に、要の庭石として据えられた後、
近江守護・六角定頼の嫡男、氏綱邸の庭園、室町幕府管領・細川家へと渡り、足利義昭を戴奉した
織田信長によって二条御所に移されます。
近江守護・六角定頼の嫡男、氏綱邸の庭園、室町幕府管領・細川家へと渡り、足利義昭を戴奉した
織田信長によって二条御所に移されます。
藤戸寺(下左写真)は、藤戸合戦当時からあったお寺です。
児島に入った佐々木盛綱は合戦で荒れ果てた寺を修繕し、合戦による源平両軍の戦没者と漁師の霊を弔う為、
大法要を行いました。
中写真:藤戸寺五重塔婆。鎌倉時代の作と言われる。
右写真:近くには行列のできる鯛焼き屋さん「鯛よし」も
児島に入った佐々木盛綱は合戦で荒れ果てた寺を修繕し、合戦による源平両軍の戦没者と漁師の霊を弔う為、
大法要を行いました。
右写真:近くには行列のできる鯛焼き屋さん「鯛よし」も
藤戸寺から盛綱橋を渡ってすぐのところに「経ヶ島」と呼ばれる小さな丘があります。
もとは藤戸寺が管理していた海中の島。
頂上には古びた経塚と小さな石塔婆があります。石塔婆のほうは殺された漁師の供養塔なんだそう。
左写真:経ヶ島
中写真:頂上の経塚と石塔婆
右写真:盛綱が土地の有力者に服従の誓紙を書かせる為の硯水を汲んだ「誓紙井戸」
もとは藤戸寺が管理していた海中の島。
頂上には古びた経塚と小さな石塔婆があります。石塔婆のほうは殺された漁師の供養塔なんだそう。
中写真:頂上の経塚と石塔婆
右写真:盛綱が土地の有力者に服従の誓紙を書かせる為の硯水を汲んだ「誓紙井戸」
源平藤戸合戦史跡 ~その1~ (岡山県倉敷市)
その平氏を追討すべく、源頼朝の弟 源範頼が山陽道、九州方面へ遠征します。
そして寿永3(1184)年12月、その進軍を阻止すべく備前国 児島に陣を敷いた平氏と備中国に陣を敷いた
源氏が藤戸海峡を挟んで対峙。ここに源平藤戸合戦が開戦します。
左写真:源氏方の陣があったとされる佐々木谷
右写真:平家本陣跡
そして寿永3(1184)年12月、その進軍を阻止すべく備前国 児島に陣を敷いた平氏と備中国に陣を敷いた
源氏が藤戸海峡を挟んで対峙。ここに源平藤戸合戦が開戦します。
右写真:平家本陣跡
盛綱は、浜辺で出会った一人の若い漁師から、白子袖や白鞘巻きの短刀を与える代わりに、
騎馬で渡海できる浅瀬をこっそり聞き出していました。
左写真:佐々木盛綱像
中写真:盛綱が戦勝を祈ったとされる「御崎神社」
右写真:この「乗り出し岩」から海を渡り始めたそうです
騎馬で渡海できる浅瀬をこっそり聞き出していました。
中写真:盛綱が戦勝を祈ったとされる「御崎神社」
右写真:この「乗り出し岩」から海を渡り始めたそうです
ちなみに、馬を休めた浅瀬は後に「鞭木(むちぎ)」と呼ばれます。
これは盛綱が、持っていた鞭を州に突き刺したまま出発し、後に鞭が芽を出して、巨木となったという
ことからきてるそう。
現在は跡地に公園があるのみですが、以前はその巨木があり、文政10(1827)年にその木が枯れた際、
それを使って、天城藩主 山脇十二郎が、現在は藤戸寺にある盛綱の像を彫刻したんだそうです。
これは盛綱が、持っていた鞭を州に突き刺したまま出発し、後に鞭が芽を出して、巨木となったという
ことからきてるそう。
現在は跡地に公園があるのみですが、以前はその巨木があり、文政10(1827)年にその木が枯れた際、
それを使って、天城藩主 山脇十二郎が、現在は藤戸寺にある盛綱の像を彫刻したんだそうです。