福岡城 (福岡県福岡市)
★★登城32城目★★ 訪問日:2010年3月21日
【通称】 舞鶴城、石城【城郭構造】 梯郭式平山城
【天守構造】 不明
【築城主】 黒田長政
【築城年】 1601年
【主な城主】 黒田氏
【廃城年】 1871年
【遺構】 櫓4棟・門3棟、石垣、堀
【指定文化財】 国史跡
(出典:ウィキペディア)
はじめ名島城に入城したが、領国経営の利便性を考えて慶長6年(1601)、この地に福岡城を築城し、
ここが明治まで黒田氏の居城となった。
解 説
関ヶ原の戦いの戦功により黒田孝高(如水)、長政親子に筑前が与えられた。はじめ名島城に入城したが、領国経営の利便性を考えて慶長6年(1601)、この地に福岡城を築城し、
ここが明治まで黒田氏の居城となった。
普請奉行は石垣積の名人と言われた野口一成が務め、今もなおその規模の雄大さを誇っている。
そして、その球場の下から福岡城が築城されるよりもずっと前にあった建物「鴻臚館」の跡が
発見されます。
鴻臚館は平安時代に建てられた古代の迎賓館で、唐や新羅からの使節や商人をもてなすのに用いられた
建物です。
現在も発掘調査が続けられています。
発見されます。
鴻臚館は平安時代に建てられた古代の迎賓館で、唐や新羅からの使節や商人をもてなすのに用いられた
建物です。
現在も発掘調査が続けられています。
また、「福岡」という地名も、実はお城の築城にあたって付けられたもの。
当時、この辺りは「福崎」と呼ばれていたのを、黒田家再興の地である備前国福岡の地名にちなみ
「福岡」と改めたのだそうです。
もし、地名がそのままだったら「福岡県」は「福崎県」だったかもしれなかったのかな?
当時、この辺りは「福崎」と呼ばれていたのを、黒田家再興の地である備前国福岡の地名にちなみ
「福岡」と改めたのだそうです。
もし、地名がそのままだったら「福岡県」は「福崎県」だったかもしれなかったのかな?
現在、福岡城には数基しか櫓が残りませんが、その中で一番立派なのが南の丸多聞櫓。
江戸時代から城内にそのまま残っている数少ない建物のひとつです。
南の丸に長~い平櫓の両端に2階建ての角櫓を備えて存在感を放っています。
江戸時代から城内にそのまま残っている数少ない建物のひとつです。
南の丸に長~い平櫓の両端に2階建ての角櫓を備えて存在感を放っています。
そして、福岡城には巨大な天守台があります。
大天守、中天守、小天守が連結する天守台は、立派な石組に圧倒されます。
ここに実際に天守が建てられたかは不明だそうですが、もし建てられていたら熊本城の天守と
同規模のものになるそうです。
大天守、中天守、小天守が連結する天守台は、立派な石組に圧倒されます。
ここに実際に天守が建てられたかは不明だそうですが、もし建てられていたら熊本城の天守と
同規模のものになるそうです。
決定的な資料が見つかれば、ぜひ復元してほしいものです。
移 動:市営地下鉄空港線「赤坂駅」下車~徒歩5分
特産品:博多ラーメン、明太子、鶏卵素麺
写真04:扇坂御門跡/写真05:本丸表御門跡/写真06:祈念櫓
写真07:本丸跡/写真08:鉄御門跡/写真09:埋門跡
写真10:小・中天守台/写真11:天守台/写真12:天守跡
写真13:裏御門跡/写真14:御武具櫓門跡/写真15:生捕櫓跡
写真16:水ノ手御門跡/写真17:南丸多聞櫓/写真18:桐木坂御門跡
写真19:名島門/写真20:母里太兵衛邸長屋門/写真21:下ノ橋御門
写真22:伝・潮見櫓/写真23:下之橋/写真24:大堀
見どころ
南の丸多聞櫓、天守台、潮見櫓、祈念櫓、下の橋大手門情 報
住 所:福岡県福岡市中央区城内移 動:市営地下鉄空港線「赤坂駅」下車~徒歩5分
特産品:博多ラーメン、明太子、鶏卵素麺