鏡山城 (広島県東広島市)
★★登城28城目★★ 訪問日:2010年01月02日
【通称】 なし【城郭構造】 連郭式山城
【天守構造】 なし
【築城主】 大内氏
【築城年】 長禄・寛正年間、寛正年間(1460-1466)
【主な城主】 大内氏、武田氏、安富行房、蔵田房信、尼子氏
【廃城年】 天文年間(1532-1555)初頭
【遺構】 石垣、土塁、堀、井戸
【指定文化財】 国史跡
戦国時代に入ると、出雲 尼子氏が勢力を伸ばし、大永3(1523)年、鏡山城を攻め落とす。
同5(1525)年、大内氏は鏡山城を奪い返すが、その拠点は盆地西方の杣城、槌山城に移され、鏡山城は
その役割を終えた。
同5(1525)年、大内氏は鏡山城を奪い返すが、その拠点は盆地西方の杣城、槌山城に移され、鏡山城は
その役割を終えた。
城跡は標高335mの山頂に位置する御殿場と言われる郭を中心に約300m四方に広がる大規模なもので、
ダバ(段場力)と呼ばれる郭や堀切、畝状竪堀群、石塁などからなり、中でも井戸跡は5か所もあり多くの
人が城内にいたことをうかがわせる。
ダバ(段場力)と呼ばれる郭や堀切、畝状竪堀群、石塁などからなり、中でも井戸跡は5か所もあり多くの
人が城内にいたことをうかがわせる。
正月から山なんかに登るモノ好きはいないだろうと思ってましたが、山の中では結構人に会いました。
山頂でヒール履いた女の子が2、3人ウロウロしてたのにはビックリ。
山頂でヒール履いた女の子が2、3人ウロウロしてたのにはビックリ。
鏡山城は、戦略的役割から歴史上、しばしば戦いの舞台になった城です。
当時、安芸国・備後国にもその勢力を伸ばし、大内氏と対立していた尼子氏が、鏡山城を落とすべく、
西条に進軍します。この時、毛利元就ら安芸国人衆も尼子氏傘下として出兵しています。
迎え撃つ大内方は、城将に蔵田房信、副将に叔父の蔵田直信が鏡山城に入り奮戦。
戦線は膠着状態に陥ります。
西条に進軍します。この時、毛利元就ら安芸国人衆も尼子氏傘下として出兵しています。
迎え撃つ大内方は、城将に蔵田房信、副将に叔父の蔵田直信が鏡山城に入り奮戦。
戦線は膠着状態に陥ります。
後に毛利元就が尼子氏から離反し、大内氏の傘下に入ったのも、この時の尼子経久の仕打ちがきっかけ
だったとも言われています。
移 動:JR「西条駅」~芸陽バス(広島大学行き)「鏡山公園入口」下車
特産品:西条の酒、美酒鍋、樽煎餅
写真04:堀切/写真05:下のダバ登り口/写真06:下のダバ(5郭)
写真07:下のダバ井戸跡/写真08:大手門跡(4郭)/写真09:馬のダバ門跡
写真10:馬のダバ(3郭)/写真11:中のダバ(2郭)/写真12:中のダバ井戸跡
写真13:本丸部石垣/写真14:御殿場(1郭)/写真15:物見岩
写真16:御殿場西下石垣/写真17:石塁/写真18:堀切
写真19:北郭A/写真20:北郭B/写真21:馬のダバ下石垣
写真22:畝状竪掘群/写真23:南郭/写真24:鏡谷神社
だったとも言われています。
見どころ
畝状竪堀、南北の郭群情 報
住 所:広島県東広島市西条町御薗字移 動:JR「西条駅」~芸陽バス(広島大学行き)「鏡山公園入口」下車
特産品:西条の酒、美酒鍋、樽煎餅
Photo
写真01:鏡山城遠景/写真02:東出丸/写真03:畝状竪掘「南枝」の『出石皿そば』 (兵庫県豊岡市出石町)
町には、約50軒もの蕎麦屋が並び、関西屈指のそば処としても知られています。
この、替わって出石の地にやって来た政明公。
大変な蕎麦好きだったらしく、お抱えだった信州一の蕎麦職人を伴って入国します。
この蕎麦職人の技法が、在来の蕎麦打ちの技術に加えられて出石そばが誕生し、広まっていきました。
大変な蕎麦好きだったらしく、お抱えだった信州一の蕎麦職人を伴って入国します。
この蕎麦職人の技法が、在来の蕎麦打ちの技術に加えられて出石そばが誕生し、広まっていきました。
『出石皿そば』は、上の写真のように、小さなお皿に少しずつ蕎麦が盛られて出てきます。
一人前は5皿で、増やしたい場合は最初の注文の時に、何枚か申告するみたいです。
一人前は5皿で、増やしたい場合は最初の注文の時に、何枚か申告するみたいです。
初・出石皿そばだった僕は、ボリュームがわからなかったので、とりあえず一人前(5枚)を注文。
しばらく待つと、おいちゃんが蕎麦と薬味を次々に持ってきてくれました。
薬味は、おなじみのわさび、ねぎに加えて、とろろと生卵も付いてきました。
出石では、だいたいどこのお店でもデフォルトでこれらの薬味がついてくるようです。
薬味は、おなじみのわさび、ねぎに加えて、とろろと生卵も付いてきました。
出石では、だいたいどこのお店でもデフォルトでこれらの薬味がついてくるようです。
蕎麦は濃い色合い。食べると、しっかりとした蕎麦の味と香りが口の中に残ります。
続いて少しずつ、とろろや生卵といった薬味も加えて食べてみます。
続いて少しずつ、とろろや生卵といった薬味も加えて食べてみます。
出石城 (兵庫県豊岡市出石町)
★★登城27城目★★ 訪問日:2009年11月23日
【通称】 高城【城郭構造】 梯郭式平山城
【天守構造】 建造されず
【築城主】 小出吉英
【築城年】 1604年
【主な城主】 小出氏、松平氏、仙石氏
【廃城年】 1871年
【遺構】 櫓、石垣、堀
【指定文化財】 市史跡
平山城に分類され、梯郭式といわれるように有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸と
梯子を立てかけたように城を築いている。
また東には、山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周囲には山から堀切で水を引き、内堀を巡らせ、北に大手門、
東西にもそれぞれ東門、西門を設け、天守閣は築かなかったが、隅櫓や多門を設けて要害とした。
梯子を立てかけたように城を築いている。
また東には、山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周囲には山から堀切で水を引き、内堀を巡らせ、北に大手門、
東西にもそれぞれ東門、西門を設け、天守閣は築かなかったが、隅櫓や多門を設けて要害とした。
最上段の稲荷郭には、城の鎮守稲荷神社を祀り、本丸、二の丸には広壮な御殿を建て、渡り廊下で連結させていた。
三の丸と二の丸の間には、水堀の役目も果たす川が流れ、復元された登城橋が架けられています。
ここから有子山を背景に、二基の櫓と石垣を合わせて見るお城の眺めは最高。
ここから有子山を背景に、二基の櫓と石垣を合わせて見るお城の眺めは最高。
登城門をくぐると、二の丸と、本丸の立派な石垣が。苔むして城跡の趣たっぷりです!
登城門とは反対側の石段を登り、朱の鳥居をくぐると本丸、稲荷郭と続きます。
そして稲荷郭には、稲荷神社が静かに建っています。
ここからは、城下町ならではの町並みを眺めることができます。
ここからは、城下町ならではの町並みを眺めることができます。
さらに奥には、有子山城への登山口がありましたが、今回は時間の関係でパスしました^^
移 動:JR「豊岡駅」~ 全但バス(出石営業所行)「出石営業所」下車 ~ 徒歩
特産品:出石皿そば、出石焼
写真04:出石城御殿跡/写真05:三の丸堀跡/写真06:登城橋と登城門
写真07:西の郭跡/写真08:下の郭跡/写真09:二の丸石垣
写真10:二の丸跡/写真11:水路/写真12:山里郭跡
写真13:本丸跡/写真14:本丸西側隅櫓/写真15:本丸東側隅櫓
写真16:感応殿/写真17:稲荷郭石垣/写真18:稲荷郭
写真19:稲荷神社/写真20:西門跡/写真21:仙石屋敷跡
見どころ
石垣、西隅櫓、東隅櫓情 報
住 所:兵庫県豊岡市出石町内町移 動:JR「豊岡駅」~ 全但バス(出石営業所行)「出石営業所」下車 ~ 徒歩
特産品:出石皿そば、出石焼
Photo
写真01:辰鼓楼/写真02:大手横水堀/写真03:三の丸跡豊岡城 (兵庫県豊岡市)
★★登城26城目★★ 訪問日:2009年11月23日
【通称】 亀城、城崎城、木崎城【城郭構造】 平山城
【天守構造】 なし
【築城主】 山名宗全
【築城年】 慶長5(1600)年前後
【主な城主】 垣屋氏、宮部氏、杉原氏
【廃城年】 1653(承応2)年
【遺構】 曲輪
【指定文化財】 なし
解 説
豊岡城は15世紀中頃、但馬守護・山名持豊(宗全)が此隅山城の出城として、標高48mの神武山に築城し、山名四天王の垣屋氏に守らせたという。
戦国末期、垣屋氏が事実上の但馬実力者となるに及び、この城は但馬支配の中心拠点となった。
後に京極氏が入封し、再度豊岡藩が置かれるが、神武山の麓に陣屋が建築されている。
小高い丘くらいの山で、階段と坂道を少し登ると、すぐに本丸跡に到着します。
現在は、本丸跡や笠の丸跡の曲輪が残るのみで建物や石垣といった遺構は残っていません。
往時は、本丸に天守台を持つ立派なお城だったようです。
現在は、本丸跡や笠の丸跡の曲輪が残るのみで建物や石垣といった遺構は残っていません。
往時は、本丸に天守台を持つ立派なお城だったようです。
また、豊岡城のあった神武山の麓、現在は市立図書館が建っている場所に、江戸時代頃に陣屋や領主館が
置かれていて、図書館建設の際の調査で建物の遺構などが見つかったそうです。
置かれていて、図書館建設の際の調査で建物の遺構などが見つかったそうです。
また、この豊岡は、忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄の妻りくの生誕の地です。
豊岡藩京極家の家老である石束源五兵衛毎公の長女として生まれたりくは18歳の時に赤穂浅野家家老の
大石良雄に嫁ぎます。
赤穂藩の大難後、長男を残し、一男二女を連れて豊岡の実家に戻り、夫良雄の討ち入りの前に離縁の形を
取ることに。
義士が本懐を遂げた後は剃髪して香林院と名乗り、後に豊岡で生まれた三男大三郎が広島浅野本家に招致され
広島に移るまでの間、豊岡で夫や長男、義士達の冥福を祈っていたそうです。
豊岡藩京極家の家老である石束源五兵衛毎公の長女として生まれたりくは18歳の時に赤穂浅野家家老の
大石良雄に嫁ぎます。
赤穂藩の大難後、長男を残し、一男二女を連れて豊岡の実家に戻り、夫良雄の討ち入りの前に離縁の形を
取ることに。
義士が本懐を遂げた後は剃髪して香林院と名乗り、後に豊岡で生まれた三男大三郎が広島浅野本家に招致され
広島に移るまでの間、豊岡で夫や長男、義士達の冥福を祈っていたそうです。
豊岡の町には、りくの遺髪塚などのゆかりのある史跡や碑、りくの名前を冠したお酒やお菓子などがいくつか
あります。
波乱万丈な人生を気丈に生き抜いたりくさんに対する、豊岡の人達の親しみを感じました。
あります。
波乱万丈な人生を気丈に生き抜いたりくさんに対する、豊岡の人達の親しみを感じました。
「足立音衛門」の『パウンドケーキ』 (京都府福知山市)
基本的には焼き菓子を扱っておられるお店で、栗を使ったパウンドケーキはバリエーションも豊富。
中には、厳選素材にこだわって作られた一本1万円もするもの(『栗のテリーヌ 天』)もあります!
中には、厳選素材にこだわって作られた一本1万円もするもの(『栗のテリーヌ 天』)もあります!
使用する栗など、使っている素材の種類でお値段が変わってくるのですが、財布と相談しながら悩んだ末、
今回はパウンドケーキでは2番目に安い『栗いっぱいのパウンドケーキ』を購入しました。
(下から2番目でも2800円するんだから!(笑))
今回はパウンドケーキでは2番目に安い『栗いっぱいのパウンドケーキ』を購入しました。
(下から2番目でも2800円するんだから!(笑))
手に取ってみると、ずっしりとした重さ。
包装を開くと、バターの何とも言えない香りが。
包装を開くと、バターの何とも言えない香りが。
さっそく切ってみると、中には大きな栗がごろごろ入ってる!
しかも、どこを切っても栗、栗、栗。栗の金太郎飴みたいです。
しかも、どこを切っても栗、栗、栗。栗の金太郎飴みたいです。
食べてみると生地はパウンドケーキにしては密度があって、すごくしっとりしてます。
口の中でもさもさする感じのケーキは苦手で、そんなケーキは牛乳と一緒に、むしろ浸すくらいの勢いで
大人げない食べ方をする僕ですが、このパウンドケーキは全然そんな必要はありませんでした。
大人げない食べ方をする僕ですが、このパウンドケーキは全然そんな必要はありませんでした。
バターの香りと控えめな甘さが口に広がり、大きな栗の食感と風味が至福の時へいざないます。
下から2番目でこれだけおいしいなら1万円のはどれだけおいしいんだろう?
たぶん1万円には当分手が出せないから、誰かお土産でくれないかなー^^
たぶん1万円には当分手が出せないから、誰かお土産でくれないかなー^^
竹田城下の町並み (兵庫県朝来市)
幾度かの大火により焼失してしまったものも多いですが、お寺や古い町並みが今も残ります。
いかにも伝統的な商家らしい造り。
また、竹田の町並みは茶色っぽい色をした土塀の建物が多いのが特徴です。
裏から見ると、長い白壁に"清酒 虎臥城"の文字が大きく書かれていました。
今でも少量ですが、お酒を造ってるそうですよ。
小川を挟んで並ぶ4つのお寺にはそれぞれ石橋が架かかっていて、すべて江戸時代の建造なんだそう。
このお寺のうち常光寺は、初代竹田城城主で山名四天王の一人、太田垣光景の菩提寺。
また、法樹寺は竹田城最後の城主 赤松広秀の菩提寺です。
このお寺のうち常光寺は、初代竹田城城主で山名四天王の一人、太田垣光景の菩提寺。
また、法樹寺は竹田城最後の城主 赤松広秀の菩提寺です。
半円形に六段の石積み、半円形石積段型桟敷と呼ばれるもので全国でも珍しく県の文化財に指定されています。
正面には舞台もあり、ここで歌舞伎なども上演されていたんだそうです。
石段に腰かけると、当時の人達が相撲や歌舞伎を夢中になって見物する様子が目に浮かびます。
「名門堂千原」の『里柿』 (京都府福知山市)
福知山駅から少し歩いたところにあるお店は、老舗の雰囲気を漂わせるお店。
この「名門堂千原」といえば、というお菓子が『里柿』です。
餡に練りこんである柿の味は、ちょっとよくわからなかったですが(笑)、上品な食感と甘さでした。