岩屋城 (福岡県太宰府市)

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★★登城30城目★★ 訪問日:2010年3月22日

【通称】 なし
【城郭構造】 山城
天守構造】 不明
【築城主】 高橋鑑種
【築城年】 天文年間(1532 - 1554)
【主な城主】 高橋氏
【廃城年】 天正14年(1586)
【遺構】 土塁、堀切
【指定文化財】 なし

(出典:ウィキペディア)

解 説

岩屋城は宝満城の支城として、天文年間(1532~1554)に豊後 大友氏の武将・高橋鑑種によって
築かれ、立花城と共に大友家の筑前支配の拠点として機能した。

しかし、高橋鑑種は主君・大友宗麟の傲慢な振る舞いに憤り、反旗を翻したために城を追われ、
代わって吉弘鎮種が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種」(後に高橋紹運)と名乗り、城主となった。

本丸は小さな平坦地で、北側には高さ3mに及ぶ大土塁がある。
本丸の東と南には腰曲輪があり、北側の遊歩道沿いには大小3条の堀切が存在する。
本丸の南西には林道を挟んで二ノ丸があり、ここには城主・高橋紹運の墓がある。
二ノ丸の下に数段の曲輪跡が続き、登山道沿いには土塁が現存している。

(出典:現地案内板、ウィキペディア)

感 想

四王寺山(標高410メートル)の中腹にある 岩屋城

大宰府八幡宮の方面から林道を登ると右手に細い階段が。
その上に岩屋城の本丸跡があります。
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左写真:岩屋城登城口
右写真:岩屋城本丸跡

岩屋城は、戦国時代に高橋紹運率いる大友軍と、九州統一を目指し大挙九州北部に進攻してきた
薩摩の島津軍との壮絶な攻防戦が繰り広げられたことでも有名です。

島津軍の進攻を食い止める為、大友軍の武将 高橋紹運が、その進路に近い岩屋城に入城。
大友氏から関白秀吉に対して援軍の要請も行われましたが、到着まで時間がかかります。

そしてついに天正14年(1586)、島津軍は総勢2万にも及ぶ大軍で岩屋城に攻め寄せてきます。
この時、高橋紹運に課せられたミッションは、秀吉の援軍の到着まで時間を稼ぐこと。
紹運以下、763名の武士は籠城戦で島津軍に抵抗します。

降伏勧告を幾度も受けますが、圧倒的に劣勢の状況の中、紹運はそれを断り奮戦。
壮絶な戦いを繰り広げた末、島津軍に3000とも言われる損害を与え、2週間も持ち堪えました。

しかし、天正14年7月27日。ついに城の水の手を切られ万事休す。
紹運は敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害。
残された将兵もあとを追い全員が玉砕します。
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左写真:岩屋城櫓台跡
右写真:櫓台跡から本丸を望む

なんとか岩屋城を落としたものの、多大の時間と将兵を失った島津軍の勢いは衰えます。
体制を立て直す間に、秀吉の20万の援軍も到着。
島津軍は薩摩本国へ撤退することとなります。


壮絶な戦いの舞台となった、岩屋城の本丸跡には、インパクトのある石碑が。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kimuyasu10/20010101/20010101010020.jpg「嗚呼壮烈岩屋城址」 高橋紹運の家臣の子孫が作ったのだとか。

それにしても、本丸跡からの眺めは絶景です。
大宰府が一望できます。
この景色を眺めながら、ランチを食べてる方もたくさんいましたよ。
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高橋紹運は、どんな思いでこの景色を眺めたのかな。

見どころ

土塁跡、本丸跡、高橋紹運の墓

情 報

住 所:福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋
移 動:西鉄太宰府駅」~徒歩1時間
特産品:梅ヶ枝餅