一宮城(徳島県徳島市)
★★登城16城目★★ 訪問日:2009年8月16日
【通称】 なし【城郭構造】 山城
【天守構造】 なし
【築城主】 小笠原長宗
【築城年】 延元3年(1336年)南北朝時代
【主な城主】 蜂須賀家政、益田宮内
【廃城年】 寛永15年(1638年)
【遺構】 曲輪、石垣、竪堀
【指定文化財】 県史跡
(出典:ウィキペディア)
南北朝から戦国時代まで代々、一宮氏が居城していたが、天正10年に12代一宮成助が長宗我部元親に
謀殺され、一宮氏は滅亡する。
その後、長宗我部氏の家臣である谷忠澄が城代となっていたが、天正13年に豊臣秀吉の第二次四国征伐
の際に開城した。
以降、蜂須賀家政が阿波に入国した当初は一宮城を居城としていたが、1年後に徳島城を築くとそちらに
移り、家臣である益田宮内が城代となった。
阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていたが、一国一城令によって寛永15年(1638)
に廃城となった。
解 説
延元3年(1338)に阿波守護である小笠原(一宮)長宗が築城した。南北朝から戦国時代まで代々、一宮氏が居城していたが、天正10年に12代一宮成助が長宗我部元親に
謀殺され、一宮氏は滅亡する。
その後、長宗我部氏の家臣である谷忠澄が城代となっていたが、天正13年に豊臣秀吉の第二次四国征伐
の際に開城した。
以降、蜂須賀家政が阿波に入国した当初は一宮城を居城としていたが、1年後に徳島城を築くとそちらに
移り、家臣である益田宮内が城代となった。
阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていたが、一国一城令によって寛永15年(1638)
に廃城となった。
(出典:ウィキペディア)
午後から徳島城に行くのと、暑くなる前にということで早朝登城。
虫よけスプレーを吹き付けて登山道から城跡を目指します。
途中、点々と遺構があり説明板などもよく設置されていました。
だんだん気温も上がってきてバテてきたところで、本丸の石垣が見えました。
なんて見事な石垣。山城でこんなはっきりした遺構は見たことなかったので、期待以上の結果に
テンションが上がります。
石垣は、他の城の石垣では見たことない質の石でできていました。なんだか銀色のような。
帰り道に行きと違うルートを選んだら、何度も同じ道をぐるぐるする羽目になり、遭難しかけまし
たが、満足の登城でした。
移 動:JR「徳島駅」~バス「一宮神社前」~ 徒歩
特産品:阿波踊り、鳴門金時、鳴門わかめ、金長まんじゅう
写真04:曲輪跡/写真05:堀切跡/写真06:虎口跡
写真07:財蔵丸跡/写真08:門跡/写真09:明神丸跡
写真10:明神丸跡からの眺め/写真11:帯曲輪跡/写真12:本丸虎口(1)
写真13:本丸虎口(2)/写真14:本丸石垣(1)/写真15:本丸石垣(2)
写真16:本丸跡/写真17:釜床跡/写真18:投石用の石
写真19:堀切跡/写真20:小倉丸跡/写真21:櫓台跡
写真22:空掘跡/写真23:貯水池跡/写真24:一宮神社
感 想
香川・徳島旅行3日目に登城。午後から徳島城に行くのと、暑くなる前にということで早朝登城。
虫よけスプレーを吹き付けて登山道から城跡を目指します。
途中、点々と遺構があり説明板などもよく設置されていました。
だんだん気温も上がってきてバテてきたところで、本丸の石垣が見えました。
なんて見事な石垣。山城でこんなはっきりした遺構は見たことなかったので、期待以上の結果に
テンションが上がります。
石垣は、他の城の石垣では見たことない質の石でできていました。なんだか銀色のような。
帰り道に行きと違うルートを選んだら、何度も同じ道をぐるぐるする羽目になり、遭難しかけまし
たが、満足の登城でした。
見どころ
本丸石垣、堀跡情 報
住 所:徳島県徳島市一宮町移 動:JR「徳島駅」~バス「一宮神社前」~ 徒歩
特産品:阿波踊り、鳴門金時、鳴門わかめ、金長まんじゅう