大野城 (福岡県大野城市)

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★★登城31城目★★ 訪問日:2010年3月22日

【通称】 なし
【城郭構造】 山城(古代朝鮮式)
天守構造】 なし
【築城主】 大和朝廷
【築城年】 天智4年(665)
【主な城主】 不明
【廃城年】 不明
【遺構】 石垣、土塁、門跡、礎石群
【指定文化財】 国特別史跡

(出典:ウィキペディアなど)

解 説

大野城白村江の戦い(663)で、新羅・唐の連合軍に敗れた大和朝廷が、連合軍の日本への侵攻に備えて
西日本各地に築かれた山城の一つである。

太宰府の北側の守りとして四王寺山に築かれ、北西の水城、南方の基肄城とともに太宰府政庁を中心
とした防衛ラインを形成していた。

百済の亡命高官2名による戦略的・技術的指導のもと築城されたことが「日本書紀」に記されていることから、
一般に朝鮮式山城と呼ばれている。

北は博多湾から南は筑後方面を眼下に納める絶好の場所に立地し、山頂と山腹に土塁が、谷間には石垣が
構築されている。
また、山頂や稜線を土塁や石塁で取り囲んだ城郭内には食糧の備蓄や居住に利用されたと考えられる70棟
余りの建物の礎石が残されている。

(出典:現地案内板など)

感 想

大野城は、四王寺山一帯に築かれた2市1町にまたがる巨大な朝鮮式山城です。
大野城と書いて「おおののき」と読むそうです。

四王寺山の山中には、現在も至るところに石塁や礎石群が残っています。
それでは、古代山城の遺構を求めて散策してみましょう!

太宰府から林道を登ってくると大宰府口城門に辿り着きます。
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この城門は、大宰府政庁側に位置し、幾つかある城門の中でも規模が最も大きいことから大野城の正門では
ないかと考えられているそうです。
城門に接して左手には石塁(水の手口石塁)が、右手には土塁が築かれています。
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明らかに人口的な土塁や石塁が張り巡らされている様子に、当時の緊張感を感じることができます。


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城門から少し歩くと、尾花礎石群(上写真左)という建物の跡が。
食糧や武器を保管する倉庫として建築されたものだそうです。

近くには、焼米ヶ原(上写真中)というところ。
なんでも、昔ここに建物があり、火災で焼けたという言い伝えがあるそう。
辺りを探せば、黒く炭化した米や麦が見つかるそうです。
しばらく地面を探してみましたが、残念ながら発見できませんでした。

ここからの景色も最高です。


八ツ波礎石群という建物の礎石跡。
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結構な広範囲に、四角く区画された礎石の跡があります。
どんな役割の建物が建っていたのでしょうか?


さらに先に進むと、大野城最大の見どころ百間石垣が見えてきます。
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どどーんと長大な石垣が奥まで続いています。
谷間に当たるところは、土塁ではなく、石を積み上げてダムのような石塁を築いているそうです。
こんな石塁や土塁が、山をグルっと取り囲んでるというんだから、相当な労力がかかっただろうな。
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この百間石垣をはじめ、大野城の多くの石垣が、近年の集中豪雨で被害を受けたのだそう。
復旧工事で今の姿まで復元したそうで、工事にあたった方にも頭が下がります。

道を挟んで反対側には、北石垣(上写真右)という大きな石垣も。


来た道とは別の山道を太宰府口城門の方面へ進みます。
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途中、けいさしの井戸(上写真左)という石を円形に組んだ井戸があります。
その近くには、広目天礎石群(上写真中)。

四王寺山の名前の由来となった、四王寺の跡(上写真右)。


その先に大石垣という名前の通り大きな石垣があるんですが、標識に従って歩くと急斜面が。。。
でも確かに下には石垣らしきものが見えます。

滑り落ちるようにして、斜面を下るとありました大石垣
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この石垣も大雨の被害を受けて、修復されたものです。
とはいえ、高さも長さもなかなかのもの。
下って来た斜面も、どうやら石垣の上だったみたいです。


最後は増長天礎石群
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土塁に囲まれた、建物跡がいくつかあります。
食糧庫として使われたそうです。
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すぐ近くには円形の井戸跡、鏡池(上写真右)。
池の底には鏡が沈んでいるそうで、日照りが続く時には、この池に沈んでいる鏡を取り出して雨乞い
をしたといわれています。
今でも、水が湧きだしています。


時間の関係ですべては廻れませんでしたが、古代の人達が当時の持てる技術を結集して作り上げたお城。
歴史のロマンを感じるスケールの大きなお城でした。

見どころ

城門跡、百間石垣、石垣・土塁、礎石群

情 報

住 所:福岡県糟屋郡宇美町四王寺
移 動:西鉄太宰府駅」~徒歩1時間
特産品:梅ヶ枝餅