龍野城 (兵庫県)
★★登城19城目★★ 訪問日:2009年9月20日
【通称】 朝霧城、霞城【城郭構造】 平山城
【天守構造】 なし
【築城主】 脇坂安政(龍野城)
【築城年】 寛文12年(1672年)
【主な城主】 脇坂氏
【廃城年】 明治4年(1871年)
【遺構】 石垣
【指定文化財】 史跡
(出典:ウィキペディア)
築城年代は定かではないが、明応8年(1499年)に豪族の赤松村秀が鶏籠山に築いたとされる。
以後政秀、広貞、広秀と続いたが、天正5年(1577)に豊臣秀吉によって開城し、秀吉はあらたに蜂須賀正勝を
置いた。
江戸時代に万治元年京極高和の丸亀移転の際に破却されたが、1672年に脇坂安政によって龍野城が再建さ
れた。この際山頂の郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になった。
現在の本丸御殿は1979年に再建されたものである。また、東門が市内揖保川町浄栄寺の山門として、大手門
が同じく揖保川町因念寺の山門として、それぞれ移築され現存する。
解 説
龍野城は鶏籠山頂の詰の丸(鶏籠山城)と山麓部に築かれた陣屋仕立ての城(龍野城)とからなる縄張りである。築城年代は定かではないが、明応8年(1499年)に豪族の赤松村秀が鶏籠山に築いたとされる。
以後政秀、広貞、広秀と続いたが、天正5年(1577)に豊臣秀吉によって開城し、秀吉はあらたに蜂須賀正勝を
置いた。
江戸時代に万治元年京極高和の丸亀移転の際に破却されたが、1672年に脇坂安政によって龍野城が再建さ
れた。この際山頂の郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になった。
現在の本丸御殿は1979年に再建されたものである。また、東門が市内揖保川町浄栄寺の山門として、大手門
が同じく揖保川町因念寺の山門として、それぞれ移築され現存する。
(出典:ウィキペディア)
お城の周りには「播磨の小京都」とも呼ばれる城下町の名残を残した町並みが広がります。
龍野城周辺は、最近つくられた建物などが城下町風に作られていて景観を損ねないように配慮されていました。
鶏籠山の麓の近世龍野城は、あまり広くもなくすぐに廻ることができました。
龍野城があった場所は明治時代に女学校があった等の関係でだいぶ改変されてますが、埋門、本丸御殿などが
再建されています。
龍野城、および龍野の風景として有名な隅櫓(上写真)は、模擬建造物のようで古絵図にも載っていないそうです
が、木造で建築された立派なものでした。
龍野城の裏手にある鶏籠山には詰めの城である鶏籠山城がありますが、時間の関係で登城できませんでした。
次回、機会があれば登城してみようと思います。
移 動:JR「本竜野駅」~徒歩 or レンタサイクル or バス(龍野橋下車)
特産品:手延べそうめん、うすくち醤油、鮎、皮製品、醤油まんじゅう
写真05:本丸御殿(2)/写真06:本丸御殿(3)/写真07:本丸御殿(4)~上段の間/写真08:本丸御殿(5)~廊下
写真09:本丸御殿(6)/写真10:本丸御殿(7)/写真11:11.鍜坂門/写真12:鍜坂
写真13:模擬隅櫓(1)/写真14:模擬隅櫓(2)/写真15:模擬隅櫓(3)~本丸から/写真16:家老門
写真17:模擬隅櫓と鶏籠山/写真18:龍野の町並み(1)/写真19:龍野の町並み(2)/写真20:龍野の町並み(3)
写真21:龍野の町並み(4)/写真22:龍野の町並み(5)/写真23:龍野の町並み(6)/写真24:龍野の町並み(7)
感 想
兵庫旅行1日目に登城。お城の周りには「播磨の小京都」とも呼ばれる城下町の名残を残した町並みが広がります。
龍野城周辺は、最近つくられた建物などが城下町風に作られていて景観を損ねないように配慮されていました。
鶏籠山の麓の近世龍野城は、あまり広くもなくすぐに廻ることができました。
龍野城があった場所は明治時代に女学校があった等の関係でだいぶ改変されてますが、埋門、本丸御殿などが
再建されています。
龍野城、および龍野の風景として有名な隅櫓(上写真)は、模擬建造物のようで古絵図にも載っていないそうです
が、木造で建築された立派なものでした。
龍野城の裏手にある鶏籠山には詰めの城である鶏籠山城がありますが、時間の関係で登城できませんでした。
次回、機会があれば登城してみようと思います。
見どころ
再建埋門、模擬隅櫓情 報
住 所:兵庫県たつの市龍野町上霞城移 動:JR「本竜野駅」~徒歩 or レンタサイクル or バス(龍野橋下車)
特産品:手延べそうめん、うすくち醤油、鮎、皮製品、醤油まんじゅう